この「助六」の芝居を見物に行った時に、わたしはまだ一つの思い出がある。その時、わたしは父と一緒に歌舞伎座へ行って、茶屋の梅林を出ようとして、草履を突っかけて二足三足あるきかけたところへ、黒紋付の羽織を着て――着物は小紋のようにおぼえている――帽子をかぶらない、五十前後の痩形の男があたかもこの茶屋へはいって来た。出あいがしらに父はその男に挨拶した。 「やあ、しばらく。」 「どうもしばらくでございました。」と、その男は丁寧に会釈した。 「おまえは先へ行っていろ。」と、父はわたしに言った。  わたしはそのまま茶屋の男に送られて、劇場のなかへはいると、父はその男と何か話しながら再び茶屋へ引返した。狂言の一番目は前にも言った通り、かの「重盛諫言」を増補したもので、序幕は寿美蔵の何とか法印が平家調伏の祈りをしているところへ雷が落ちる。そこへ権十郎の成親と猿之助の多田蔵人が出て来て、だんまり模様になるというような筋で、格別に面白い場面でもなかったが、その序幕が終るまで父は場内へはいって来なかった。幕が切れてから少し経って、ようやくに父の顔がみえたので、わたしはあの男が誰であるかを父に訊いた。 iPhone 買取 カスタム明日は我が身