月夜野橋に到る間
月夜野橋に到る間に私は土地の義民磔(はりつけ)茂 左衞門の話を聞いた。徳川時代寛文年間に沼田の城主眞田伊賀守が異常なる虐政を行つた。領内利根吾妻勢多三郡百七十七箇村に檢地を行ひ、元高三萬石を十四萬四千餘石に改め、川役網役山手役井戸役窓役産毛役等(窓を一つ設くれば即ち課税し、出産すれば課税するの意)の雜役を設け終(つひ)に婚禮にまで税を課すに至つた。納期には各村に代官を派遣し、滯納する者があれば家宅を搜索して農産物の種子まで取上げ、なほ不足ならば人質を取つて皆納するまで水牢に入るゝ等の事を行つた。この暴虐に泣く百七十七箇村の民を見るに見兼ねて身を抽んでて江戸に出で酒井(さかゐ)雅樂守(うたのかみ)の登城先に駕訴をしたのがこの月夜野村の百姓茂左衞門であつた。けれどその駕訴は受けられなかつた。其處で彼は更に或る奇策を案じて具さに伊賀守の虐政を認めた訴状を上野寛永寺なる輪王寺宮に奉つた。幸に宮から幕府へ傳達せられ、時の將軍綱吉も驚いて沼田領の實際を探つて見ると果して訴状の通りであつたので直ちに領地を取上げ伊賀守をば羽後山形の奧平家へ預けてしまつた。茂左衞門はそれまで他國に姿を隱して形勢を見てゐたが、斯く願ひの叶つたのを知ると潔く自首するつもりで乞食に身をやつして郷里に歸り僅かに一夜その家へ入つて妻と別離を惜み、明方出かけようとしたところを捕へられた。そしていま月夜野橋の架つてゐるツイ下の川原で磔刑に處せられた。しかも罪ない妻まで打首となつた。漸く蘇生の思ひをした百七十七箇村の百姓たちはやれ/\と安堵する間もなく茂左衞門の捕へられたを聞いて大いに驚き悲しみ、總代を出して幕府に歎願せしめた。幕府も特に評議の上これを許して、茂左衞門赦免の上使を遣はしたのであつたが、時僅かに遲れ、井戸上村まで來ると處刑濟の報に接したのであつたさうだ。
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