だが、世の中は、このところ、たいへんかわった。  そのわけは、住宅難のこと、資材難のこと、物価がたいへん高くなったことなどのために、戦災で焼けのこったありとあらゆるものが、新しい目で見直されることだった。  この左内村に対しても、県から達示があって、「家のないたくさんの戦災者のために、なんとかして住める部屋をできるだけたくさん探して報告せよ。また修理をしないとはいれない部屋があれば、どのくらいの修理を必要とするか、それも報告せよ」といって来た。そしてこの達示はたいへんきびしく、左内村に対しても、あるきまった数以上の部屋を申告するように、わりあてて来た。  村では困って、毎日のように会議をかさねた。部屋をもたない者はないわけではなかったが、気心もわからない人たちがはいって来て、同じ屋根の下に住むということを考えると、つい心がすすまなくなるのだった。  しかし「部屋なし」と報告することはできないので、みんなしぶい顔をして、ため息をつくばかりだった。 「どうだね、あの時計屋敷を手入れして、あれへ戦災者をむかえたら、どうだろう」  そういった者があった。 

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